<文芸創作学科が開講する主専攻科目>
注意:リンク先の科目解説は、履修する学生に示す「シラバス(授業計画)」をそのまま掲載したもので、学外向けに分かりやすく解説したものではありません。
<文学部が開講する主専攻科目>
文芸創作学科が標榜する「文学の宇宙(ユニヴァース)」とは、何なのだろうか?
個々の作家や詩人、小説や詩や戯曲は孤立して存在しているのではない。それらは長い歴史と広がりを持つ文学世界の中で生まれて来た。文学はまた芸術や学問の世界とも関わりを持ち、文学を真に理解するためには社会や歴史の問題とも向き合う必要がある。一冊の本が時に一つの「小宇宙」といわれるのは、こうした広く奥深い世界がその内に備わっているからである。
文芸創作学科はこのような文学の世界を凝縮し、それ自体が一つの「文学宇宙」となるように構成されている。科目しかり、教員しかり。私たちが「文学の宇宙(ユニヴァース)」と称するのは、このためである。
「文学のユニヴァース」は、「文学宇宙」としての文芸創作学科全体への入門科目である。
この科目は、三つの主要な柱によって構成されている。この三つの柱が相互に支え合っており、どれも軽視することはできない。
1 入学した諸君を、より有意義な学生生活に導くための学習面でのガイド。
2 文芸創作学科の各教師による、それぞれ独自の文学世界への案内(文学観、講義内容や具体的な学習方法等の解説)。
3 文芸創作学科を卒業まで歩き抜くための「見取り図」を、履修者が「文学の宇宙(ユニヴァース)」というコンセプトに基づき各自つくること。
この授業の目標は、散文の基本を理解することである。
いかに個性的に魅力的に表現するかということ以前に、書く者が学んでおくべき最低限の基本がある。文学の文章であるか実務の文章であるかにかかわらず、一度は習得しておかねばならない散文の基本がある。書き始める前に何をどのように準備しておかねばならないか、書いている最中は何に注意しなければならないか、書いた後には何を確認すべきか、等々。授業では、その基本を概説しその方法をできるだけ具体的に講義する。学生がそれを体得できるよう実習の機会も交えて講義する。
この授業の目標は、「文章表現I」で理解した散文の基本を、実習を通じて血肉化することである。
ここでも、修辞を凝らした文学的な達意の文章が書けるようになることは目的ではない。たとえば様々な授業で課されるレポートのような文章において、自分の言いたいこと(言うべきこと)を明晰かつ簡明かつ正確に他者に伝達できるようになることが目的である。
「文章表現I」は概説から始めて相対的に講義にウエイトが置かれた授業だが、「文章表現U」では、ホームワークを含む実習にウエイトを置いて、よりプラクティカルな文章指導を行う。
まず私達は、古代中国、古代ギリシャ・ローマ、古代日本において、物語が発生する瞬間に、神話作品を通して立ち会う。その渦巻の中から、どのようにして文学が紡ぎ出されてくるかを、主に中国の古代小説、散文、ギリシャ悲劇、詩、古代ロ−マの小説、日本の説話集などから適宣作品を選び、夢をみるように、音楽に耳を傾けるようにしてたどってみる。
同様の心がまえで、近代に至るまでの東西の古典的作品にもなるべく多く付き合ってみることにする。
先人たちが、どのようにして物語を紡ぎ、それを享受してきたか、語り手と聞き手、書き手と読み手の関係の変遷なども視野に入れながら鑑賞を進める。やがて、私たちは近代、現代の文学のとば口に立っていることになるはずである。
「世界の文学を読むI」は、「世界の文学を読むII」に引き継がれるが、「小説の世紀」ともいわれる19世紀において二つの科目はオーバーラップしながらつながる。
19世紀から現代までの世界の文学作品、主に小説を読む。
19世紀は「小説の世紀」といわれる。小説が、文学の中心に位置していた詩に取って代わって「主役」になったこと、大作家が輩出し近代文学の古典となる作品が数多く書かれたこと、さらに産業の発達や教育の普及によって一部の知識層だけでなく一般庶民までもが娯楽として小説を楽しむようになったこと、これらはいずれも主として19世紀の出来事だったといえる。
そして20世紀、新しい芸術思潮の誕生、二度の世界大戦、映画・TVなど映像文化の急激な発展など、様々な外的影響にさらされながら作家たちの営為はつづき、幾多の重要な文学作品が生み出された。
この授業では、これらの作品について「解剖学的」に論じるのではなく、また文学史的な重要度を評価するのでもなく、作品を一つの「全体」として味わうことを目標とする。したがって授業で取り扱う作品の選択においては文学史的評価でなく、その魅力を教師と学生が共有できることが重視される。また、ここでいう「世界の文学」には日本文学も含まれ、授業で取り上げる場合は外国文学と区別なく読み進めることになる。
文芸批評家は、作家・詩人の上に立って、そこから彼らの作品を見下ろし、これはいい、これはよくないと、まことしやかな理屈をつけてあげつらっているだけのように見える。作家・詩人の下に仕えて彼らの作品に提灯持ちめいた解説を加えているだけのようにも見える。また、一般の読者に何を読んだらよいか、どこが読みどころかを上手く解説してくれる便利な案内人のようにも見える。だが、文芸批評がただそれだけのことだとしたら、文芸批評家は何が悲しくて百年以上も文芸批評にたずさわってきたのかということになる。
では、逆に、文芸批評家は何が嬉しくて文芸批評をやってきたのか。文芸批評とは一体、何なのか。
授業の目標は、文芸批評に関する基本的な知識・情報を系統的に習得し、文芸批評とは何であるのかを概念的に把握することである。
授業では、主として日本の近代文学史における代表的な批評家とその著作を系統的に整理して提示し、なかでも特に重要な批評家に関して彼らの代表的なテクストをとりあげて読み、その意義を考える。
文芸批評は、ある点で文学研究に似ている。文学研究の成果を全く無視して批評することはできない。
他方、文芸批評は、文学作品を対象とするだけでなく、文芸批評自体がひとつの創作(作品)でなければならない。また、批評の対象は必ずしも文学作品でなければならないわけでない。必要に応じて政治・哲学・宗教・美術などにも嘴(くちばし)を入れる。その意味では、文芸批評は、何を対象として何をやってもいい、きわめて自由なジャンルである。しかし、それは恣意的にやってよいということを意味しない。
何を対象とするにせよ、その批評文の読み手は、専門家ではない。批評文は一般の読者が読んで腑に落ちる作品でなければならない。この意味では、文芸創作とも、文学研究とも、政治・哲学・宗教・美術等、文学以外のジャンルとも踵を接して何をやってもいいという自由は、逆に、それらのすべてに拘束された場所で、普通の言葉で考えなければならないということである。
このように、文芸批評は@創作(文芸ジャーナリズム)A文学研究(アカデミズム)B文学以外のジャンル(政治・哲学・宗教・美術など)およびC一般の読者に対して境界領域に位置し、それぞれの方面に対して緊張した関係を保持することによって成立している。授業では、このような緊張の場所において批評がどのような機能を果たしているか、それを、具体例を参照しつつ考える。
哲学philosophyとは、哲学という学問の研究のことではない。フランスでは、ふつうの言葉でphilosopher(哲学者)は、必ずしも哲学という学問の研究者を意味しない。平生の選択においてよい判断力をもっている人のことをいう。
日常においては「一寸先は闇」が真理である。判断を誤れば、その誤断そのものによってその場で直ちに罰を受けるのが、日々我々が置かれている現実である。
そのような場所で、何がよいか、何が自分を元気づけてくれるかを淀みなく判断して、いいもの(善)、自分を勇気づけてくれる言葉、自分の生を促進してくれるものを選び択り、逆に自分の元気をそこなうもの、生を阻害するもの(悪)を拒絶し排除する力を備えている人を「哲学者」と言う。哲学とは、そのような判断力を養うことである。哲学的な書物に関する専門的学識のことではない。
しかし、このことは、いわゆる哲学書を退けることを意味しない。デカルトであれ、スピノザであれ、またカントであれ、ニーチェであれ、ほんとうの哲学者の著作は、外見において難解に見えても、その本質には、いいもの、自分の生を促進してくれるものを選び取る判断力としての哲学が生動している。
授業では、適切な哲学のテクストを選んで読み、学問としての哲学ではなく、自分にとってよいもの(善)、自分を最も元気づけてくれる言葉を選び取る判断力としての哲学を学ぶ。
文学はどこから来たのだろうか。その根元的な問題を、創作という観点から見直し、追体験してみようとする授業である。
手がかりは、プラトンによって提起され、アリストテレスにおいて確立された文学理論の基本用語「ミメーシス」。ミメーシスとは、現実模写あるいは描写を意味する。一口にいうなら「リアリズム」の問題である。
人類は、どのような表現をリアルと感じ、どのような表現をリアルでないと感じてきたか。そのことを具体的な作品を通してさぐってゆこうとするのである。例えば、物語の主人公の変遷(神々や王や集団が主人公を独占した古典時代から、平凡な日常生活を営む任意の人物がその地位を奪い取った近代へ)、説明と描写、人称と視点、地の文とカギカッコの会話文、細部と全体の関係、小説作品と戯曲作品の比較、といった角度・視点から。
その結果、学生諸君は、あるいは近いものが遠くに、遠いものが思いのほか近くに見える、という経験をすることになるかもしれない。
現代の文学作品の背後には、膨大な古典の世界が広がっている。しかし「古典」を自ら楽しみとして読むという人は、恐らく少ない。難解な文法や、時代の隔たりによる背景理解の困難が先行し、「文学」としてのイメージから遠ざかるからであろう。だが一方で、現代社会に根差した慣習や、無意識に口を衝いて出る言い回しなどにも古代の影は色濃く滲んでいる。
この講座では、まずは古代の文学に登場する出来事から現代との接点を考え、そこから徐々に古代の文学を読む喜びを知り、生涯の糧となすべく、発展させていく。読解に必要な知識を伝授する課程は含むが、単に文章を理解するのみにとどまらず、そこから思考を拡げ、個々の作品を読み解いていきたい。
「古事記」をはじめとする記紀万葉の世界にふれることで、古代の静寂の中で人々が自然について語る声を聞くと共に、そこから平安期へとつながる日本文学の変遷について、幾つかの具体的な作品を通して学ぶ。
漢字から仮名が生み出されたことに象徴されるように、大陸からの輸入文化が日本風に消化吸収されたのが平安時代である。この時期、王朝貴族を中心として日本文学の古典の代表的な作品が数多く生み出される。きらびやかな宮廷世界を描いた物語は、今日でも、現代語訳が多々編まれ、様々なかたちで目にふれる機会も多い。
だが平安期には、こうした表舞台の作品のみならず、世をはかなんだ隠者文学、今日的な体裁に近い私記としての日記など幅広い作品ジャンルが成立する。さらにその後、権力の中心が貴族から新興階層である武士に移行するにつれて、これらの文学の形式や受容のされ方も異なってくる。
この授業では、平安時代から中世に至る時代の文学の特質とその変遷について、平安、鎌倉期の主立った作品を読み解くことで理解を深める。
古典ということで身構えることなく、また従来的な読みにとらわれることなく、様々な角度から個々の作品の読みを検証したい。
今日、小説や詩や戯曲というものはこういうものなのだという固定観念に我我は支配されている。しかし、現在あるようなものとして、日本の近代文学が固定化されてくる以前には、さまざまな可能性を持つ多様な姿形の文章表現が存在していたのである。近代の日本の文学は西洋の圧倒的影響のもとに、明治の文学者たちの努力で作り上げられてきた。しかし、江戸期の文学が、明治になって突然、現在の文芸に変わってしまったわけではない。
この科目は、江戸と明治を一体のものとして、その連続した混沌とした状況を、具体的な作品を読むことで感じ取ることを目的としている。失われたり忘れ去られてしまったものの中に、きらりと光るダイヤの原石はないだろうか? 実は現代の文化の中に密かな伏流として流れこんでいるものはないのか? そこには、硬質な漢文的表現による思想的な文章から、同じ漢文でも滑稽な卑猥な魅力にあふれたもの、日常の庶民の職業や階層による言葉遣いを忠実に再現したようなものから、波乱万丈の物語、現代のキャッチコピーに通ずる言葉遊びのおもしろさなどさまざまなものがうずもれている。
豊かな" 混沌" から、自らの表現の糧となるようなものを見つけ出して欲しい。
体験や感性は文芸創作において重要な要因だが、どれだけ特異な体験をしようとも、またどれほど感性を磨こうとも、それだけでは文芸作品を書くことはできない。書くことは、先行する作品を読むことを通して初めて可能になる。
現代において近代文学はすでに古典であり、これから作品を書こうとする人にとって古臭い過去のものに見えるかもしれない。しかし、それらを読み、そこに現在に通じる創造の契機をつかみとった上で書いてはじめて、体験や感性は表現を獲得する。逆に、このプロセスなしに書かれた作品はひとりよがりに終わるだろう。
授業では日本近代文学の古典的作品を読む。日本近代文学の古典的作品に対して、各自が自分自身の読みを施し、そこに創造の契機をつかみとることが目標である。その条件として、明治・大正・昭和の文学者・作品に関する基本的な知識を習得する。代表的な作家・作品を取り上げて読み、日本近代文学がどの程度まで「日本」的であるか、どの程度まで「近代」的であるか、どの程度まで「文学」的であるかを多様な観点から(たとえば、言語論的、文体論的、主題論的、社会学的、伝記的、比較文学的、等々のアプローチにより)考える。
恐らくは人間が言葉を持つようになったその始まりの時から、「文学」は時代ごとに姿を変えながら、「言葉による表現」という本質を常に保持しつつ長い歴史を築いて来た。そうした中、近代以降、時代の文学の中心にありつづけて来たのが小説であることは、多くの人の認めるところであろう。
この授業は新しく書かれた小説を読むことで、文学の今日的なあり方を探り、その「生態」を研究することを目標としている。具体的には1980年代以降、今まさに書かれたばかりの作品まで、小説を論ずることになる。(必要に応じて評論・エッセイなどを取り上げることもあり得る)
この授業においては、まだ評価の定まらない新しい作品の文学史的な意義を未来に向けて測定するような試みを行わない。私たちが生きているのと同じ時代に生み出された作品を、同時代人としてどのように読みうるのか、議論を戦わせていこうとする授業である。今日の文学の 「価値」ではなく、その生きている姿を見極めることが授業の目標だからである。
小説の衰退が叫ばれるようになって、すでに久しい。しかし現在なお世界各地で、おびただしい量の小説が生産されつづけている。はたして小説は、文学は本当に衰退したのだろうか? この授業は、いま日本と世界に、どのような優れた文学作品が存在するか、また特に小説というジャンルの可能性をめぐって、どのような試みがなされているか理解することを目的とする。
教師はいちおう現代の文学世界の鳥瞰図を呈示するが、学生はいったんこれを使って鳥瞰したあと、共時世界の個々の作品へと各自で降り立ち、ひとつひとつを熟読玩味して作品世界と交感しつつ、今日的な文学テーマと文学の再生の可能性をさぐることになる。
テキストは日本語で読める現代文学の中から選ばれるが、ときには小説というジャンル、あるいは文学そのものを否定、破壊しようとするほど前衛的、実験的な作品も読んで、現代小説の「古典」に対する「現代性」の意味についても考察する。
日本の文学、とりわけ近代の日本文学は外国文学の影響なしには考えられない。むしろ、外国文学との緊張によって成立したと言ってよい。それは過去においてそうだっただけではない。現代においても、作家(たとえば、大江健三郎、古井由吉、村上春樹など)は海外の文学から創造的な刺激を得て創作している。
この授業では、古今東西の外国文学から一人の作家を選んで、<私>性――その外国文学における<私>のありよう――を切り口にその文学を探究する。
日本の文学、とりわけ近代の日本文学は外国文学の影響なしには考えられない。むしろ、外国文学との緊張によって成立したと言ってよい。それは過去においてそうだっただけではない。現代においても、作家(たとえば、大江健三郎、古井由吉、村上春樹など)は海外の文学から創造的な刺激を得て創作している。
この授業では、古今東西の外国文学から一人の作家を選んで、社会性――その外国文学における社会のありよう――を切り口にその文学を探究する。
詩とは何か。詩というものに関して基本的なイメージや概念を把握できるようにすることが目的である。文学史に残る詩から、学生にも馴染みのある作品までを俯瞰する。文学における詩の位置づけを行なう。明治開国以来、口語と文語の問題など、我が国特有の歴史について考える。翻訳詩による詩の概念の移入、また加えて俳句・短歌の伝統も視野に入れる。こうして捉えられた日本における詩歌の特殊性を前提として、より普遍的な詩のあり方について学ぶため、世界的にみた詩との差異と共通点を明らかにする。
ポエジーを言語によって表象化したものが詩作品である。たとえポエジーが感性的なものであっても、言語を経由するからには、詩作品には必ず理性が介在してくる。詩においても、理論というものが作品をきちんと貫いているのである。ポエジーが感性的なものであればあるほど、逆にその「ジャンルの掟」の存在に意識的でなければ、そのポエジーは詩作品へとは結実しない。
この授業では、実作品を例として、詩の理論を学び、詩という「ジャンルの掟」を身に付けることを目標とする。
「演劇」は洋の東西を問わず、宗教的な儀式として出発したと言われている。その「演劇」の成り立ちの歴史を具体例に即してたどり、人類と共に常に存在し続けてきた「演劇」のもつ情動の内実に迫ることを第一の目的とする科目である。
古代ギリシャの哲学者プラトン、アリストテレスの影響を受けたギリシャ悲喜劇に端を発しリアリズム思想の根強い西洋演劇の歴史と、仏教、儒教思想の影響大で反リアリズムの時代が長く続き、今もまだ伝統芸能という形で続いている東洋演劇、特に日本の歌舞伎・文楽・能・狂言等の歴史を比較検証し、更に明治以降西洋思想の影響下に育まれた日本の近代演劇と第二次世界大戦後から今日までの現代演劇を通して、「演劇」の本質を掌握するための授業でもある。
また「演劇」に関する学問的研究である演劇学、20世紀の科学として主にドイツで提唱されてきた狭義の意味の演劇学(Theater wissenschaft,science of theatre arts)についても知識を深めてもらうことになる。
民俗学は、古くから伝わる民間伝承を調査するだけの学問ではない。この授業で取り扱う民俗の「民」は日本民族であり、「俗」は日本の風俗文化である。民俗学は、日本論、日本文化論であり、日本社会学、日本宗教学でもあるのだ。日本人、そして日本文化は、どこから来て、どこへ行くのか。我々が現在立脚しているところの生活風俗の、その起源と変遷を教えてくれ、我々がよりよく現在を生き、よりよく未来を生きていくための道しるべとなってくれる学問が、民俗学なのである。未来を知ろうとして、未来を見つめても、そこにはまだ未来は存在しない。
この授業は、未来を知るために、現在に伝わる民俗をたどって、過去へとさかのぼっていく旅である。そして、真の国際人とは、自己の民俗を他者に説明でき、異なる民俗を持つ他者と共生できる人のことであり、また、真の国際文化は、自己の民俗をカムフラージュしたり、他者の民俗を軽視するところからは生まれてこない。この授業は、受講生が国際人へと成長し、国際文化を創造するための一助となるであろう。自己の民俗を自覚し、民俗学的思考方法を身に付けてもらいたい。
戯曲・シナリオの現物を素材に、小説や詩歌などとは異なる言語表現を考え学ぶことが、この授業の目標である。
演劇・映画・TVなどは視聴覚文化と呼ばれ、あたかも言語表現とは別のものであるかのように思われているが、基本的には言語を用いた表現から始まる。まず戯曲やシナリオといった形の言語形態があって、それを出発点にパフォーマンスや撮影が行なわれ、作品が実現される。ときには戯曲やシナリオの前段階に原作の小説がある場合もある。また映画やTVの製作過程では、シナリオづくりの前段階で、内容の概要を示すシノプシスという文章(あるいはシノプシスを含む企画書)が必ず書かれる。いずれにせよ演劇・映画・TVなどの視聴覚メディアも、言語過程を踏まえることによって、表現として成立するわけである。
その過程に視線を注いで考察を深めることは、単に劇作家や脚本家になるための修練にとどまらず、言語表現の多様な可能性を体験することになるだろう。
映画の歴史はわずか100年で、文学にくらべてはるかに短いが、20世紀における科学技術の急速な進展とともに加速度的に豊かな変容を遂げてきた。その変遷を具体的に辿ることを通して、偉大な才能たちがどのような試行錯誤を闘ってきたかを世界的な視野で追跡しつつ、映画の魅惑の原点を探るのが、この授業の目標である。
100年前、映画なるものが誕生して以降、映画の作り手たちは、この新しい表現手段の可能性を探求しつづけてきた。それは、まず技術的な闘いの歴史であり、社会的な葛藤の歴史であったが、同時に、言語的な闘いの過程にほかならなかった。なぜなら、ビジュアルな表現について考えることは、ビジュアルな営みという以上に、すぐれて言葉に関わる活動だからである。
つまり、映画史とは、映画をめぐる言語活動の足跡であり、映画の魅惑の原点を探ることは、言語表現について実践的に考えようとしている学生にとって切実な行為のはずである。
いま、映画は日本で、世界のあらゆる国で、作品の内容においても製作状況においても、かつてないほどに混沌を極めている。この授業では、その実情に具体的に触れることを通して、現代の先端的な映画表現がどんな域にあり、どこへ向かいつつあるかを探りたい。
映画は1895年に生まれたが、100年後の1990年代に至って、それまでの映画文法と現代人の欲求のあいだにズレが起こり、既成の映画イメージをはみ出す果敢な試みが、日本はもとより世界各国で多彩に行なわれ始めた。もちろん作品の中身においては玉石混交といわねばならないが、そのことも含め、豊穰な混沌と呼ぶことのできるその現状には、映画のみならず、およそ表現と名のつく営為を志向する者には、無視できないどころか、密接に関わってくる問題がさまざまに見られる。
ビデオを活用して、現代映画の最前線をつぶさに体感・解読することは、すべての表現に求められている現在性の考察につながっていく。
主に雑誌や単行本の制作に関わる出版編集者の仕事の内容を具体的に学ぶとともに、出版・マスコミ業界について考察する。
出版編集者は、基本的には著者の陰に隠れた「裏方」であり、マスコミ業界における中心的な職種でありながら、その仕事の実像が見えにくい面がある。また同じ編集者という職名であっても、その仕事の実態は関わる出版物の性質によって実に様々である。
この授業では、千変万化ともいえる編集者の仕事の基本的な部分を、編集実務経験者の立場から解説し、可能な範囲で実際の編集業務(出版企画の立案、書き手の選定から交渉、新しい書き手の発掘、原稿の注文と受け取り、原稿の指定と校正、記事の執筆、写真やイラストなどを含む誌面のレイアウトなど)のシミュレーションを行う。
また出版・マスコミ業界への就職を志す学生の興味と関心を視野に入れながら、出版・マスコミ業界の過去と現在を考察し、さらにネットワーク社会の出現によって激変が予想されるその未来についても展望する。
「翻訳文学」というジャンルが、わが国ほど独自の領域を築いてきた国は他に類を見ない。「翻訳文学」の歴史には、数百年という鎖国の時代を経て、その後急速に海外諸国の文化を吸収しようとしてきたこの国の歴史そのものが縁どられている。同時に、その歴史の中で、「日本文学」とは一線を画す固有の表現技術が培われてきた。多くの読み手は、書名も作者も告げられずに開かれた書物の一頁、一行に目を向けただけで、それが「日本文学」であるか「翻訳文学」であるかを直感的に知るであろう。
本講義では、「翻訳文学」の歩みを概観しつつ、その「直感」を「理論」に結びつけるべく、「日本文学」と「翻訳文学」とを分かつ文章作法を事例的、実践的に研究していく。「日本文学」という枠にとらわれない、自由な表現方法を学び身につけることがこの講義の目標である。いまや文学は、「日本文学」やあるいは「アメリカ文学」といった国名を冠にした枠組みの中でのみ完結するものではなく、グローバルな意味で「文学」なのである。
今日、インターネットは生活のあらゆる面に浸透しており、活字メディアを主な媒体としてきた近代以降の文学のあり方にも大きな変化が訪れている。言論の自由や著作権といった問題も、コンピュータやインターネットの理解がないと、的確な対応ができない。
この授業は、データ形式という視点から、情報革命によって変貌していく社会と、表現のありようを考えるとともに、表現者および研究者として必要な基礎知識を身につけることを目標とする。
「パーソナルコンピュータと文学T」はデータ形式という視点から、情報革命によって変貌していく社会のありようを考え、表現者および研究者として必要な基礎知識の習得を目指したが、IIではデータ形式の下にある文字コードという視点から、情報社会の理解をさらに深めていく。
情報機器は日進月歩で、コンピュータの知識は数年で古びるものだが、文字コードは四十年前の問題がいまだに尾を引いている。文字コードがわかれば、コンピュータの可能性と限界が一層よく見えてくるはずである。
小説を中心とした文章表現による創作の授業である。履修者は各自作品を制作して提出し、講師と共に、履修者が相互に作品を批評する合評に参加することになる。文学作品の創作は、もとより創作者各人の才能と努力によるところが大であるが、講師による作品の講評に耳を傾け、合評によって複数の読み手の理解の仕方を知ることは、自らの表現力を高めるための大きな手助けとなるだろう。また、創作という「産みの苦しみ」の過程を経ることによって、様々な文学作品への理解が深まることも期待したい。
「創作表現I」と同様、小説を中心とした文章表現による創作の授業である。履修者が各自作品を制作して提出し、講師と共に相互に作品を批評する合評を行うのも「創作表現I」と同様である。この授業では、「創作表現I」を踏まえ、文章表現による創作という行為をより自覚的に行うと共に、合評に際しては、作品の成り立ちを、文体、構成、登場人物などの要素別に分析すると共に、それら各要素を関連づけて全体として作品を論じられる力を身につけるようにしたい。
この科目は、文芸創作学科カリキュラムの中の離れ小島、のんびり逍遥しながら森羅万象について思索し、交感する場所となる。閑話休題の閑話にあたる部分、よしなしごとの自由の満喫である。先人たちもそのようにして随想し、それを文章に表した。とはいっても、随想(エッセイ)は散文芸術の重要なジャンルのひとつである。そのことをキケロやモンテーニュ、蘇軾(そしょく)や吉田兼好らにさかのぼってたしかめたあと、近現代を代表するいくつかの作品を読む。
随想。読んで字の如く、自由に綴られた一見気ままそうな散文が、創作と批評の双方に栄養を供給しつづけていることを確認する。そして、学生みずから、森羅万象人生諸般にわたって随想し、実作を試みるが、あいにく現代口語の文体は、現代日本人たる私たちが思考し、かつ文章化するにふさわしいだけの成熟にまだ達していない。口語文ができて100年しか経っていないのだから。そこで私たちの気楽な苦労が始まる。その苦労を、いかに実あらしめるかが、この授業の目指すところである。
俳句はおよそ四百年前に誕生し、今では日本ばかりでなく世界各地で多くの人々を魅了している文芸である。授業では、古今の名句を鑑賞したり、自分たちで俳句を詠んだりしながら、こうした俳句のもつ魅力の源を探る。
俳句には他の詩に見られない特徴がある。わずか十七音、しかも五・七・五・のリズムを刻む。季節を表す季語を入れる。「や」「かな」「けり」などの切れ字がある。まず、こうした俳句の約束事と約束が生まれた理由を理解する。
次に、なぜこの日本で俳句が生まれたのか、見方を変えると、俳句が成り立つために必要な条件とは何なのかという点を考察する。
さらに、俳句を成り立たせていた条件が、明治維新以降の日本の近代化によってどう変わったか、それとともに俳句がどう変わらなければならなかったか。近代化によって俳句がこうむった変容を通じて、日本にとって近代とは何だったのかという問題を考える。
授業の中で句会・吟行などを行い、俳句の実作を試みることがある。
文学における性差の問題は奥深く、また幅広い。特に近年は、いわゆるフェミニズム的な男−女の政治的な対立構造では捉えきれない思潮の変化があり、むしろ現実に理論が追いついていない傾向すら見受けられる。
この講義では、詩・小説さらにサブカルチャーである映画などを題材として、各作品におけるセクシュアリティのあり方が作品の本質と根深く関わっていることを分析する。パターン化された性差認識を脱構築することによって、従来的なアプローチでは把握しきれなかったテーマや表現方法についてより根源的で構造的な理解が可能になるだろう。さらに評論などに示される性差認識の歴史的変遷をたどり、現在のパラダイムがいかなる様相に辿り着いたのか、現実の性意識とも合致するような文学的性差認識を確立し、そこに至る必然性を共に確認しあう。
恐らくそこには、人間というものを捉える認識における「戦後」なり「20世紀」なりを相対化するビジョンの雛形も見えてくるであろう。
<生命体としての芸術作品を読む>
そもそも芸術作品とは何であろう。それは、ある素材を用いて作り手により創作された「作品」が、時代の流れを超えて幾多の変遷を経ながらも、今日わたしたちの眼前に在るものと考えられる。作品を成り立たせているのは、色とかたちだが、誕生した時点からそれは一種の生命体として存在し始める。
当初の色・かたちがそのまま残ることは、ごく少数の例外の他はありえない。当然のことながら、色は退色し、かたちは変化する。大規模な建造物を例にとると分かり易いが、ある時代、ある民族にとって重要な意味をもった建物には、それにふさわしい機能が付与されていた。しかし時代が移り、支配層が変化すれば、そうした巨大な建造物は建て替えられるか、再利用するかのいずれかの道を歩むことになる。例えば、古代ギリシャ建築の代表として名高い『パルテノン神殿』はいつも’古代’作品ではなかった。中世のビザンチン時代にそれは教会堂として用いられ、トルコの占領期にはモスクとして利用されたという。作品は時代に応じてその意味を変えていったのである。
この講義では、こうした時間軸のなかで芸術作品のもつ生命体としての意味を考えたいと思う。具体例として取り上げるのは、特に西洋美術史上の代表作例である。建築、彫刻、絵画、工芸などの諸ジャンルの中からさまざまな履歴をもった芸術作品のメッセージが読み解けるように、分かり易いかたちで説明する。そのため、毎回スライドやビデオなどを用いて、具体例に即して話をすすめる。
「卒業制作」準備のための科目である。これまでの学習による蓄積を元に、小説・評論・詩歌・戯曲・シナリオ・映像作品などの創作に赴く。
文芸創作学科で学んで来た成果を問う「卒業制作」は、学科の教師や授業科目が多岐にわたるように、上記のような様々な表現の分野において行うことが可能である。したがって、この科目を受けるためには、自分が卒業制作において何をしたいのか、教師にどのような指導を求めるのか、見極めておく必要がある。
授業はゼミナール形式で行われる。卒業制作の前段階であり、作品制作のための指導について教員と学生は一対一の関係を結ぶことになるが、この授業の中では学生同士で相互批評や共同研究などを行い切磋琢磨していくことで、来るべき作品制作のためのヒントを学生自身がつかむことが期待される。こうして準備がすべて完了し、あとは作品の制作に着手するだけという段階に到達すれば、この授業の目的は達成されたことになる。
文芸創作学科における学習の総仕上げとして、卒業制作作品をつくりあげていく。この卒業制作は文学部他学科における卒業論文に相当する。
ただし、芸術的表現としての作品ではなく、学術的な論文を書きたいという希望がある場合には、これにも応ずる。
「創作演習」までの授業で学んで来たことを元に、自分の頭で考えて決めた方向づけにしたがって、小説・評論・詩歌・戯曲・シナリオ・映像作品などの作品を自らの力で制作する。この段階においては、教師が学生個人に対し、基本的には学生の求めに応じて、作品制作に必要な指導と助言を行うことになる。つまり普通の授業のように、教師の側から学習の素材をあたえ、懇切な解説を加えるという形を取らないのである。
これは芸術的表現が、原理的に他人の強制によってなされるものでない以上、当然のことである。教師は必要な場合に道案内をするだけで、どのルートを選ぶかは学生自身が定めなくてはならない。あくまで学生個々の内発する創造性を尊重しつつ、具体的な作品の完成が導かれることになるのである。