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| (1)戦後の日本考古学と上高森事件 太平洋戦争の敗戦をきっかけにして、日本の考古学は装いを新たに再出発したといわれる。歴史学界においては、戦前や戦中の日本国内を席巻した、いわゆる皇国史観からの脱却と克服が最重要の課題であったとき、記紀に記された「神代」の実態を相対化するうえで考古学が選ばれた、というのもうなずける。事実、静岡県登呂遺跡の発掘や群馬県岩宿遺跡の発掘は、敗戦後の日本考古学が一躍脚光を浴びる起点になったに違いない。これらふたつの発掘調査によって「神代」の想定外であったはるか遠い過去の日本列島にも現実には人が住み、神武東征以前に東海地方で稲作が始まっていたことが明らかになったのだから、確かに新たな視点が切り開かれたといえるのであろう。その後は科学的歴史学の一翼をになう学問分野として、日本考古学は戦前のそれと一線を画して発展してきたといわれている。さらに岡山県月の輪古墳の発掘調査のような、研究者と市民・地域住民とが一体となった発掘運動のスタイルも、戦後日本考古学を特徴づける要素だといえようか。同様のスタイルの調査は、その後断続的ではあるものの各地で実践ないし模索されている。 ところが2000年の11月に発覚した上高森事件は、こうした戦後日本考古学の発展のなかから生み出された。年代的関心の焦点は岩宿遺跡の発見の延長上にあって、発掘調査スタイルはいわゆる月の輪古墳調査型(国民的歴史学運動タイプ)であったことも象徴的である。 この事件が敗戦後から現在にいたるまでの日本考古学において、その順調な発展に水を差しただけであるのなら、ことさら問題視するにはおよばないのかもしれない。当時の新聞報道において関西方面の某古墳時代研究者が語っていたように、日本の先土器・旧石器時代研究の未熟さゆえであると処断するのが正しいのであれば、石器時代研究の見直しだけで済むのかもしれない。学界の主要な部分の礎は盤石であると、また市民からの支持や信頼も揺るぎないものと胸をなでおろすことができるかもしれない。たしかに昨今は、事件の余韻が学界を包む空気の中で急速に薄れているかのようにもみうけられる。 しかし古墳時代を研究する私にとって、学界の内部を広く覆うであろうと思われるこうした処理の仕方や期待感には強い違和感がある。上高森事件をあそこまで深刻化させた背景には、もっと構造的なものがあるに違いない。戦後の日本考古学が目指した方向性の根っこの部分に由来するところがあるように思われてならないのである。なぜか。それは記紀神話の呪縛からの脱却という当初の共通課題が、実際のところはほとんど実現されず、表層部分の塗り替えに終わったという事実を重視するからである。さらにこうした事実をこれまで不問に伏して省みることがなかったという、より一層重大な事実関係に注目するからである。 この点を再吟味するうえで恰好の素材となるのは、戦後の古墳時代研究をリードした小林行雄の業績とその性格である。いくぶん踏み込んだ話になるが、しばらくお付き合いいただきたい。 (2)記紀と小林行雄の古墳時代研究 小林行雄の戦後における業績を振り返ってみると、『古事記』や『日本書記』の記載にかんする具体的な分析を伴う論考として「黄泉戸喫」(1949)、「日本上代における乗馬の風習」(1951)、「阿豆那比考」(1952)、「鉄盾考」(1962)、「神功・応神記の時代」(1965)、「倭の五王の時代」(1966)、「神々の虚像-神話教育と考古学-」(1968)がただちに検索されてくる。これらの論考は表題からして考古学と記紀との対話であったことがわかるが、これらばかりではない。伝世鏡論や同笵鏡論の骨格部分を表明したことで著名な「古墳の発生の歴史的意義」(1955)をはじめとする、鏡を取り扱った論考のなかでも、しばしば記紀の記載は参照され、考古学的事象の解釈にあたっての判断材料に用いられている。さらに普及書や啓蒙書として位置づけられる『古墳の話』(1959)や『古鏡』(1965)などでも記紀の記事は積極的に紹介され、考古学の立場から解説されているのである。今掲げた諸論考や著書の発表・発行年代をみれば、どこか特定の年代に偏ることはなく、戦後の小林の研究がもっとも活発であった1940年代後半から60年代半ばを通じてのことであったことも確認できる。つまり小林の古墳および古墳時代研究は、記紀との密接不可分の関係を終始維持しながら進展したとみて、さしつかえないのである。 そして改めてこれら諸論考を総合的に読みなおしてみると、小林の古墳および古墳時代研究には次の諸特徴があることに気づかされる。まず第1に、記紀の内容になぞらえて考古学資料を解釈するという側面が濃厚であること。第2に、古墳の年代観については津田左右吉にはじまり戦後に引き継がれた資料批判の動向を丹念に参照しつつ、10代の崇神(3世紀末に崩御)、15代の応神(4世紀末に崩御)を定点として採用したうえ、古墳時代の開始期にあたる(と小林が想定した)崇神以降の皇位継承は、基本的に男系世襲制であったとみなしていること。第3に、戦前に記紀の解釈をめぐってとりかわされた議論のなかでしばしば焦点となった、朝鮮半島諸国への進出や拠点的支配など、個別政治事件への関与を避けず、しかしそこに登場する遺物など考古学的事象の問題として置きかえることが可能な部分に限定した考察をおこなっていること。第4に、記紀の基本構造のうち、神代および初代神武から9代までの記載を史実とは異なるものとして排除し、具体的にいえば神武東遷の完全否定をおこなったうえで、神代から「欠史8代」までの空白となった部分に「大和弥生文化の成立と発展」なる図式を据えたことである。なおこの図式を据えるにあたっては、考古学的事象と記紀との間の文脈を揃えるために「魏志倭人伝」が活用されていることも見逃すべきではない。 このうち第4項目の特徴が前面に押し出された場合には、たしかに記紀神話の呪縛からの解放を高らかに宣言する論考だと受け止められたとしても不思議ではない。さらに第3項目が第4項目と連動して作用すれば、記紀との一定の距離を保ちながら、かつ慎重な配慮と目配せを欠かさず実証的・科学的考察をおこなったものとの評価が下されるに違いない。事実、小林の業績に対する過去から現在までの学界における評価をみれば、おおかたの反応はそうであったことがわかる。そしてこのような評価や高い支持をえたことが、その後の多大な影響力の源泉となったこともたしかなようである。もとより私自身も、今日にいたるまでその影響下から抜けだせないでいる。 しかし改めて注目したいのは、第1項目と第2項目が同時に備わっていることであり、諸項目は相互に有機的つながりをもつことである。これらの点をふまえて総合的に判断すると、小林の記紀に対する一貫した姿勢は、呪縛からの脱却などでは決してないことがわかる。むしろ古墳時代開始期とされた崇神以降にかんする記紀の信頼性の高さを、考古学の立場から補強する役割を果たしたとみるべきである。さらに第4項目における神武東征の否定については、戦前からの論争の延長線上にあって、既に唱えられてきた北部九州勢力東遷説への反論だという性格をもつ点も見逃してはならない。この部分は伝世鏡論の提唱として学史の上で語られることが多いのであるが、それは銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏への解釈に終始した段階から抜けだし高次の議論へと展開させる意図のもと、戦後になって新たに付け加えられた論理でもあった。同笵鏡配布論との抱き合わせとして構想された論理構造の卓抜さと斬新さとがきわだったがために、戦前からの議論の継続性が見えにくくなっただけにすぎない。大和弥生文化の成立と発展という図式を記紀の前半部分に据えつけるための媒体として「魏志倭人伝」を活用するためには、邪馬台国が北部九州にあっては絶対にならない、という論理上の要請もあった。 要するに小林行雄の戦後の古墳研究は、戦前ないし戦中からの一貫した姿勢で彼独自の課題と向き合ったものであり、敗戦を転換点とした思考のゆらぎなどは一切なかったとみるべきである。もちろん、それは戦前の史観を戦後にまで引きずったというような否定的な意味ではない。戦前・戦中においては、当然のことながら皇国史観からも距離を置き、1945年8月15日正午を起点としてはじまる戦後日本考古学の渦中にあっても、記紀との関係を遮断しなかった考古学者として小林の業績を再評価すべきだ、という意味においてである。 (3)戦後日本考古学の誤読 繰り返しになるが、小林行雄が記紀との密接な関係を維持しながら戦後の古墳時代研究に専心したことを非難する理由はどこにもない。戦前および戦中の日本社会全体を覆った動乱や、敗戦後の混乱にまどわされることなく自らの研究姿勢を貫いたのであるから、軸足になんらぶれを起こさなかった彼の信念を再確認すればよい。評価の仕方にもよるが、考古学資料の解釈にあたって不可欠な「史料」として記紀を位置づけ、相互点検を怠らなかったともいえるであろう。むしろ問題は戦後の日本考古学界の側にある。 記紀神話の呪縛からの脱却を至上命題として取り組まれた敗戦後の日本考古学は、必然的に記紀との対話を遮断することになった。特に政治史的考察にあたっては、記紀の記載にすりあわせて考古資料を解釈することや、記紀の記載を参照しながら過去を語る姿勢を極度に忌避する空気が蔓延したとみるべきである。おそらく記紀を顧みる姿勢それ自体を、いわば罪悪視する方向へと事態は展開した可能性が濃厚である。学徒動員などの「美名」のもと、戦時中に下級士官や兵士として戦地に赴くことを余儀なくされた世代の研究者が、戦後日本考古学の牽引役を担ったのであるから、こうした方向性が当事者感覚のもとに必然化されたとしてもなんら不思議ではない。 しかしそのような日本考古学全体を包む空気のなかにあっても、戦後矢継ぎ早に出された小林の諸論考は大歓迎された。その理由は、先に示した記紀との関係における第3項目と第4項目の特徴が読み手の側に強く印象づけられ、斬新さとして受け止められたからだとしか考えようがない。伝世鏡論と同笵鏡配布論とを抱き合わせて古墳時代の成立を語る小林の論考こそが、記紀に代わる戦後初の科学的歴史理論だと評価された事実を疑う余地はないからである。しかしそのような評価が学界の「大勢」によって下されたことは、第1項目と第2項目から導かれた小林の所見をも同時に受容したことを意味する。これら4項目はすべてが結びついて小林の理論的枠組みを構成しているからである。 つまり問題の根幹は読み手の側の誤読にあったとみなされる。さらにこうした誤読は当然の帰結を導くことになり、現在の学界状勢へとつながってゆく。こののちに実施された様々な発掘調査成果や理論的作業概念は、小林が提供した筋書きを基盤ないし土台にして、その上に積み上げられることになったのである。第1項目や第2項目の存在や、その果たす効果の重要性は基層に固定され、表層からは見えにくい状態がただ顕著になっただけである。 こうして、記紀を基軸に据え、それとの対話を基準に組み立てられた古墳時代の映像と、記紀との遮断を前提として構築されはじめた個別断片的映像との、本来は相容れないはずの二者が接着融合するという不思議な現象が生じ、まるで水と油が溶解したかのような、よくいえば木に竹を接いだような基本図を生み出すことになった。それが戦後日本考古学を支配しつづけてきた古墳時代像だったのである。先に私は、記紀神話の呪縛からの脱却という当初の共通課題がほとんど実現されず、表層部分の塗り替えに終わった事実を重視すると述べたが、上記のような経緯をみれば、意図するところを了解いただけるものと思う。 ではこのような経緯や構図について、戦後の日本考古学界はなぜ今日まで不問に伏してきたのであろうか。この点にかんする回答は単純である。私自身がごく最近までそうであったように、基層部分に無自覚であったと結論づけるほかない。傍証としての具体例を示すことにする。春成秀爾氏は最近刊行された『考古学者はどう生きたか』(学生社2003)のなかで、考古学的現象の解釈にあたって小林がしばしば記紀を根拠とする姿勢をとらえて「記紀との相克」や葛藤だと解釈する。先に示した第3項目と第4項目の特徴がいかに効果的に作用し、第1項目や第2項目の意味するところを見落とすことになったのかがよくわかる。この著作は、疑念や問い直しへの入り口部分には到達していながら、それを相克や葛藤としか認識しえなかった戦後日本考古学界の「大勢」を現時点において象徴するものだといえよう。 (4)現在の古墳時代研究と皇国史観 さて、以上に述べたような経緯を経て戦後確立された古墳時代像を再度概観してみよう。崇神の代以降については記紀の記載内容を大筋で踏襲したものとみてよい。また神代から神武を経て開化にいたるまでの過程は、大和地域に成立した弥生文化の住人が担うというもとなった。天皇は外部世界から日本列島に降臨したのではなく、大和弥生人のなかから生まれたという図式を確定させたのであるが、同時に天皇の一系性の源泉は大和の地に刻み込まれる恰好で固定されることになった。改めていうまでもなく、筋立ての骨格は王権の確立過程を王権の側から語るものである。これが現在に至るまでの古墳時代研究を支配する基礎認識(パラダイム)なのである。 しかし、こうして描かれた古墳時代像のどこが実証的(ないし科学的)考察の結果なのであろうか。基本図は8世紀に編纂された「王権の物語」の冒頭部分に「大和民族」の生成と弥生文化における大和の優越性や卓越性を(神武東征に代えて)挿入したものでしかない。神話を排除し、天皇は人間社会のなかから生まれたという図式に置きかえたことが科学的理論なのであろうか。戦前や戦中の人々を捉えたとされる神話の呪縛力とは、本当にそこまで強固なものだったのであろうか。どの世代に属したかによってその強固さも異なるようであるが、むしろ否定的な証拠の方が多い。すなわち「記紀神話の呪縛からの脱却」という看板文句に呪縛されているのは、私たち現在の古墳時代研究者の方ではないのかという疑問すらわいてくる。 皇国史観の拠り所となった基礎資料が記紀であることはいうまでもない。同じように現在の古墳時代研究の基本認識の枠組みの拠り所もまた記紀なのであるから、両者はごく近しい、いわば兄弟関係にあることがわかる。つまり両者は国家主義的歴史観の産物として大枠でくくられ、いっぽうは国粋主義的表現形であり、もういっぽうは日本主義とでもいうべき表現形としての差をもつに過ぎないのである。 こうした歴史観に下支えられた古墳時代研究の枠組みが学問の名を借りて世に流布されつづけてきたのであるから、日本民族の起源を60万年前までに延伸させて語った国家主義的逸脱を、余所事として処理する資格などないではないか。そう思うのである。国家主義の良し悪しがここで問題なのではない。それと自覚せずに特定の史観に呪縛されている状態の非科学性を問題視するだけである。 古墳時代研究の本当の意味での科学的思考すなわち考古資料との直接対話に最大の根拠をおく思考法根は、そして敗戦後の時点において、今後はそうあるべきものと期待されたはずの理論的枠組みの構築は、玉音放送ではなく11月5日の毎日新聞朝刊記事を転機として、これからはじまる。 引用文献 (文中で列挙した小林行雄の諸論文は下記1961年文献および1976年文献に再録されている) 小林行雄1951『日本考古学概説』創元社 小林行雄1959『古墳の話』(岩波新書) 小林行雄1961『古墳時代の研究』青木書店 小林行雄1967『女王国の出現(国民の歴史1)』文英堂 小林行雄1976『古墳文化論考』平凡社 春成秀爾2003『考古学者はどう生きたか』学生社 |
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